(美佐子さんはどうしたかしら)
そう思った瞬間、淑子は美佐子の声を聞いた。
「淑子さん、さようなら」
聞こえる筈のない美佐子の声を淑子は確かに聞いたのである。
(美佐子さんは雷に打たれて死んだのじゃないかしら)
それは悪い想像だった。山の親友に対して失礼な、不吉な想像
だった。
そんなことはあろう筈がないと心の中で打ち消しても、ひとたび、
淑子の耳の底に焼きついた美佐子のさよならの声を消すことは
できなかった。

--途中省略--

「ドリュー頂上直下の水晶テラスに二人の遭難者を発見・・・・」
パイロットの声は上ずっていた。ヘリコプターは赤いランプを点滅
させながら、全速力で基地に向かった。
そろそろドリューの西壁が夕日を受けて、深紅に輝く時刻になっ
ていた。 ~作家:新田次郎氏の「銀嶺の人」より引用~
 
この新田次郎氏の、劇的な文章で終わる「銀嶺の人」には、私は
何度も泣かされ,スイスアルプスやシャモニーの山々を歩くたび
に思い出される。
小説の中に登場する「淑子さん」は、世界的な女性クライマーの
今井通子さん、美佐子さんのモデルは 鎌倉彫の彫刻家:若山美子
さんである。
無口で、背が高く,目が澄んだ、和服の似合う美しい人だった。

新婚山行きの「ドリューの岩峰」で最愛のご主人と落雷に遭って
遭難し、死亡するという物語設定だが実話である。

小説の中では、同じころグランド・ジョラスをアタックしていた淑子
さんは、雷鳴の中に、聞こえる筈もない美佐子さんの声、
  「淑子さん、さようなら」
を二度にわたって聞くのである。

私の恩師でもある、仏文学者で登山家の近藤 等氏は、

~ただ舞台の設定として若林美佐子が新婚旅行をかねた山行き
で遭難するのが、作品では ドリューの岩峰で、原因は落雷とな
っているのが、実際にはマッターホルンのイタリア稜での墜落で
あったといった程度の違いはある~
とその解説の中で結んでいる。
この「銀嶺の人」は新田氏が昭和36年の夏と41年の夏にアル
プスを周遊したときの体験が基礎になっているという。 
そしてこの小説は昭和49年9月号から 昭和50年8月号まで
「小説新潮」誌上に連載された。
その後昭和54年に新潮文庫より発行されている。

40年代の初めにスイスを初めて訪ねた私にとって、後に読む
この小説は人生観を変えてしまうほどの大きな衝撃と感動を与え
た。

このサイトの中で私が使用しているハンドルネ
ーム、「美佐子」と「Misakott」については、
山仲間の人気者であったそんな美佐子さんが
ヴァーチャルな世界に生き続け、スイスの素晴
らしさを伝え歩くという設定で使用しているも
のである。

なお、新田氏はスイスアルプスについて多くの著書を残している
が、奥様である作家・藤原ていさんの戦後の大ベストセラー
「流れる星は生きている」も、舞台はスイスでないものの、大変
感動的な小説なので、ぜひご一読願いたい。    
(絵と文:Misakott)